昭和51年06月27日 特別奉修委員



 今日は朝の御祈念に椛目の宮崎さん達が、親子四人であのお参りになっとりましたが、長男の何というでしょうかねあれ名前は、今どっか北九州の方へ行っておられる。それが夕べ帰って来て、もうほんとに今度はお父さんとお母さん、泉の事で一生懸命神様にお願いさせて頂いて、もうそれこそ日参り夜参りさせて頂いたが、初めて信心の有り難さが分ったという話を、夕べ一晩その息子さんにしたち。
 もう今迄あの参ろうとか、拝むとかと言わなかったのが、今日は付いて来てるんですよね。もう本当にあのう本当におかげを頂いた頂いた。いわゆるあのうおかげのところだけではなくて信心が語られるからでしょうね。ただおかげを頂いたところだけではないかも知れん、なにか信心が語られる。これも昨日夫婦で参って、いま親子三人で参ってきますね、泉君も一緒参って来ますから。
 昨日の御理解を頂いて、親先生合楽で言われるお取次ぎを頂いて、日々成り行きを大切にさせて頂くということは、こりゃ日々本当に今日も成り行きを大事にさせて頂くという事に、取り組んでおらなければね、いよいよん時に受けられないですね、というお届がありました。さぁ困った事が起きてきた難儀な事が起きてきた。さぁここを合掌して受けんならん、とだけではいけんていうこと。
 やはり常日頃に、そこんところを頂いておかないと、あのういわば起きてくる問題も、そのいわば日々お取次ぎを頂いて、しかも成り行きを大切にして行きながら、この成り行きが生まれたのであるから、それが受け方がすんなりとでけますねということに、気付かせて頂いたというのです。まぁ皆んなが合楽で成り行きを大事にするとか尊ぶとかいうことは、もうそれこそいやと言う程聞いてきとる訳ですけれどもね。
 実際の真剣に一と月間も成り行きを大切にしながら、言いたいけども言わん、こうしたいけれどもせん。ただそん時の成り行きの時点時点を大事にして、して初めておかげを受けて、それが言えれるということになる。先ほど波多野さんが、あのお届けをされます中に、近所にあの大祓いのあの祓えつものやら、あのう交通安全のあれを持って、あのう行かれて、したら親戚に当たります臼井さんというお医者さんがおられます。
 そこへ行かれたらまぁ上がんなさいと、とまぁゆっくり信心の話をすれば、結局合楽の親先生の話になる訳ですけれども、もうそればってん本当もうそりゃ、不思議なこっちゃありますよと言う訳です。あちらにお坊ちゃんが四人おられますけれども、それがあなた、士農工商ですからね、というて話をされたち。そりゃもう本当にこりゃね、やっぱぁあの御神徳を受けて、しかも日々あの御神勤がお出来になっとらなければ、出来る事じゃないですねということを、そう言われたというんです。
 日々成り行きを大事にしてただけじゃいかん。成り行きを大事にして、なら御神勤なさっておられるということ、それがそういうとても願っても、そのう出来るとは思われないような事が、あのだんだんその事だけじゃあるまい、何もかにもがそう言う風に出来てくると言う訳です。もうそれこそあのういつも神様がそこに姿を見せて下さり、そこに神の声を聞くような思い。
 昨日は綾部さんところの御主人の三十年の式年祭でした。皆んなまぁ盛大なお祭りがございましたが、もう昨日に限ってお花が持ってきてない。あすこはいつもあの御主人の式年の時には、大きな花輪をお供えなさいますもんね。けど今度はその花のはの字もなかったんです。だから私もうあのう装束付ける前にお風呂入ってから、あのうしよりましたら嫁があん花ば活けよるとこでしたもん。でそりゃ綾部さんところのて、いいえこれは今日田中さんからあのう頂いたけんでちゅうて言う。
 私はこん村内の田中さん、田中さんと思うてね、あのう思うとったら、実は日田の田中さんが持ってきてやっとんなさったじゃそうです。それでまぁこれ入れさせて頂いてから、後からお祭りが済んでからの、そのう御挨拶の時にこの御理解が出たんですよ。もう私は本当に思うのですけれども、天地のいわば摂理というものがね、もうそれこそもう天網恢恢疎にして漏らさず、て言う様な言葉があるがね、もう一分一厘間違いのない、ちょうどグラフ用紙のような正確のなもんですよね。
 例えばんならあのう綾部さんの丸亀さんというのが、まぁあそこの屋号でしょうけれども、そん屋号が百年前にでけたか、五十年前にでけたか知らんけれどもね、もう百年後には二百年後には、必ず合楽に御神縁を頂かなければならない事になっておったと、神様があのどなたかが、亀の背に乗っておられるとこを頂くです。いわゆる亀とまぁ亀といや、私の事を亀というて下さるですからね。
 ということはあのうまぁ極楽行き、いわゆる竜宮を目指して御霊様が、一生懸命だから三十年も経っておられるとですから、まだ信心なさってから、まぁ六、七年でしょうかね。というそのうならそのうなんですか、そういう天地の節理の中にあのう、合楽に縁を受けてられるのですから、まぁ御霊様が抵抗なんも無しにすうっと亀に乗られる訳です。私は仏教だなんていう御霊がやっぱるんです中には。
 けれどもそういうそのあの、丸亀というその屋号が付いたのにも、もう何十年後には合楽におかげを頂かなければならんから、丸亀と付けれられたということにも言わばなる訳です。そういう微妙な働きの中に、まぁ改式のおかげを頂かれて、ならいまいうなら極楽を目指させて頂いておられる御霊様ということ。小さい火鉢に火がぐるぐる起こっとる。これではとてももう遠くからしか当たられん。
 そばからは熱うして火鉢には寄りつかれん。大きい火鉢があっても中に火も入っとらなかったら、誰も寄り付き手はいなようにとても、あの綾部さんいよいよもって大きゅうならにゃいかん。だいたいまぁあのジャンボおばしゃまちゅうくらいですから、大きいのですけれどもなら、心もやっぱあのとおりに大きゆうなんなさらにゃいかん。それがあのジャンボあれはなんちゅうですか、あのアザミジャンボアザミ、あれはドイツアザミちゅうそうですね。
 その安心のおかげを頂いとります、信心のおかげを頂いてというてです、もうあのうけれどもやはり性格的にじがじがのもんが、どっかある訳ですね。だからこれがあのうどういう事かというと、大きくなるということですよね。私は昨日もその事を霊祭の後に聞いてもらったけれど、もう私は霊祭のたんびんに、皆さんに言うことは、もう本当に取次者名利を、こげん感ずる時にはないて私は言うんです。
 あの御霊様のお祭りをする時には。だからどうしてこんなに有り難いじゃろうかと、私はあの御祈念中にそれを思わせて頂いたら、神を信じ御霊の働きを知ってるからだということを頂くです。神を信じということによって、言うならばあのう神を信ずるところに言うならばじがじがせんで済む訳です。神様の働きであるからじがじがせんで済む訳。御霊様の言うならば、あのういうなら魂の世界での様相と、言った様なものを垣間見させて頂けるだけのものを、頂いておるからその御霊達のいうなら。
 まぁいうなら小躍りして喜ぶというか、まだ表現が出来ない位に喜ぶです。御霊がそれをね私が感ずる時にです、本当あの取次者名利を感ずる時だと。そういう例えばあの御霊様が家の根であるということぐらいは、もうお互いが知っておりますけども、その根を大事にするということが、まぁおかげを頂く元になるですけれども、いよいよ火はぐるぐる熾っとるけれども、火鉢が小さい。もちっといよいよ大きくなる以外にない。
 いよいよ大きくなる以外はないということは、いよいよ神様をよりもっと分り、信ずる事以外にはないんだということを、これは御霊様にもそれがいうて聞かせられ、いうならば、綾部さんにも聞いて貰えるという、また御親戚みんな集まっておられましたから、まぁ聞いて頂いた事になる訳ですけれどもね。今日昨日が、あの玄潮の九十人、あぁ六十人集まらなきゃならんのに、十六人かしか集まってなかったげな。それで講師まで見えとるとにですね。
 それあのここでは、あの古賀さんが担当しとりますから、久留米の古賀さんが参りました。そしてここで一番に言うことは、昨日はもうおかげ頂きました、ちゅ言うのですよ。もうおかげ行って話を聞いておかげを頂いたと。とりわけ今度の玄潮の綾部さんのあれが、もう大変な反響だったそうですね。またちょっと読んでみるとそげん、なるほどほんに今時に、たったあれだけ記事が、皆さん読まれたでしょう。読んどらん人があるですか。みんな読んどるでしょう。
 ですからねあのやっぱ玄潮は、それどこれ一冊でも余計、あの買うて貰わなきゃずうっと赤字だそうです。玄潮は。それであのうところがやっぱりですね、中には何人か玄潮は止めてくれという教会があるそうです。もうはっきり言うてくるげな。なしかちゅうたらね、あげんとば出してもらうとね、私達のお説教が信者に徹底せんちゅうたげな。うちの先生のお話はお話の材料がなくなると。と言うたあの先生があられたということを昨日、今日言ってましたがね。
 ならあの玄潮の中に現れておる、なら綾部さんのおかげの頂いておられる様子と言うものがね、もうまさしくこれは合楽の御比礼だと、ちょうど大分の大戸富士松という、あの大変有名な信者がおります。その人が講師だったそうですがね。その合楽のことをその綾部さんのあの例をとって、まぁ話してとにかくまぁ生きた教会、生きた御比礼の輝いておる中に、こういう信者が生まれるんだと、言われるくらいな、いわば信心にお育て頂かれておってもですね。
 実際自分自身が自分を見極めたときに、なるほどあのジャンボアザミである自覚がでけられて、本当にこれが一つ一つ取れて行くということなんです。私は今日もう一つ有り難い話を聞かせて頂いたんですけれども、桜井先生が、昨日なんか京染めをしておられる御親戚があるそうです。そこにその方と初めて会うたというのが、あの桜井さんあの合楽に文男先生と言う人がおられるでしょう、てもう本当に文男先生のね、あの在り方というかあの話というか、もう素晴らしいち。
 私は金光様にお参りせんばってん、はぁこげん時には、文男先生ならどうさっしゃるじゃろうかちすっぐ思うち。そすとそん通りするともう絶対おかげ頂くち。先日も交通事故におうたげな。そん時にすぐあの文男先生ならどげんさっしゃるじゃろうか、と思うた時にね、もう絶対相手に要求はしなさらんという話を聞いとったから、絶対話をそれをせじゃったが、その後の味わいの良い事、その後のおかげになってくる事の素晴らしい事にね、もうただ有り難い。
 お参りはせんけれどもあのう文男先生の生き方にね、私は帰依しておると。それでなんかがある時にはすぐに、あすこに走って行って御相談をすると、的確な答えをして頂くということが有り難いという話を聞きました。有り難いですね。もうこれは脇から聞くとが一番うれしいです。はぁもう本当に正義さんが、正義さんがとこういうけれども、近所の門内の人が来てからね、もうあっちはもうとにかく立派なとこう言われるとね、なんか自分の事が褒められたようにあるです。
 今日は不思議な事に高山さんの事を言うた人がありました。それはあのうもう本当に折角信心させて頂くなら、高山さんのような信心をしたいとこういうのです。なしやまだあんたこう素晴らしいこうこうござるじやんの、いえ高山さんの信心が素晴らしい。それは出過ぎもさっしゃらずに、引っこみ過ぎもさっしゃらんち言う訳です。そしてあの人の話には味があるちゅう訳です。まぁだ話ゃるじゃろうかちゅう様な話は、絶対ないちゅうこと。というお届けを二人から聞かせて頂いて。
 高山さんの今、今度お届を聞かせて頂いてです、本当に人の事を祈るとか願うということがね、もうはっきりその答えが出てくるということです。折角ふんならばいわゆる示現活動的な人の事をこう次々とお届をされます。それが一つ一つはぁ本当にもう、あの例えば、昨日ある病人さんの事をお届けされた。もう大変困った病気であるけれども、それが誰々さんから、あの人は今日は野原で、こうずうっとあの散歩しござったちいう話を聞いて、もう神様の働きもう昨日、初めてお取次ぎ頂いたばっかりなのに。
 もう神様がそういう働きを、こちらに感じさせて下さると言う事です。だからせずにはおられんと言う事になって来る様な、示現活動であり、ならそのその人の事のお願いをしよるけども、その願いがただお初穂をお供えしてというだけではないと言う事をです、今日二人の方が高山さんの信心にひとつの憧れの様なものを持っておると言われたのは言う意味の事を言われたのは、そう言う所じゃなかろうかと私は思うんです。
 お互い信心させて頂くのですから、本当にその文男先生じゃないけれども、高山さんじゃないけれども、みんな合点がいって自分もおかげを頂いて、人までもおかげを頂いて、しかも神様んごとあるじゃないですかね。こげん時ならば文男先生同じ同業者ですよ。京染めやさんじゃから、けれどもこげん時ならば、文男先生ならどげんさっしゃるかと思うて、そればすると必ずおかげになるち。
 しかも交通事故の事なんかね、普通で真似ん出来るこっちゃない事をです。文男さんはあぁ言う生き方をしよるから、あげなおかげを頂くということを見せてある、ちゃんと。だから信心のないけれども、ここにお参りをして来んけれども、それだけのものをですね、やはり黙っておる中に信心が出来て行っておるということなんですよ。そういうところからね、私はいよいよ神様を信ずる力。
 そこには信ずる力が大きくなれば大きくなるだけ、勿論おかげも多くなるですけれども、じがじがが無くなってくると思うですね。じがじがする時には、もう一回り大きゅうなれという時だと、お互い分らしてもろうてね、まぁ今日は取り交ぜなお話でしたけれども、一つ本気でね、あの信心を一つさしてもらわんにゃいかんですよ。信心をさしてもらうということ、信心を頂かなきゃいけんです。で今朝の御理解ということになってくるのじゃないでしょうかね。
   どうぞ。